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岡山地方裁判所 平成2年(ワ)174号 判決

原告

田中明子

原告

田中真理

原告

田中直裕

原告ら訴訟代理人弁護士

清水善朗

谷和子

被告

学校法人真備学園

右代表者理事

八代光彦

被告訴訟代理人弁護士

甲元恒也

塚本義政

主文

被告は、原告田中明子に対し金一六五万円、原告田中真理及び原告田中直裕に対し各金五三二万五七七四円並びにこれらに対する平成二年四月一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

訴訟費用はこれを四分し、その一を被告の負担とし、その余を原告らの負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

被告は、原告田中明子に対し金二〇一八万三〇九七円、原告田中直裕及び原告田中真理に対し各金一〇〇九万一五四八円並びに右各金員に対する平成二年四月一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

訴訟費用は被告の負担とする。

仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  田中義臣の死亡

被告は、教育基本法及び学校教育法に従い、私立学校である岡山県真備高等学校及び岡山県真備中学校を設置することを目的として設立された学校法人である。

田中義臣は、原告田中明子の夫、原告田中直裕及び原告田中真理の父親であり、昭和四一年四月に被告に教員として採用され、以後被告において教職に従事し、昭和六一年当時は、被告設立の岡山県真備高等学校(以下「学校」という)の教諭として勤務していたものである。

田中義臣は、昭和六一年一一月七日の勤務中、昼休み時間に学校の応接室において、生徒指導担当教諭とともに生徒に対する注意、指導をしていた際に昏倒し、直ちに救急車で岡山済生会総合病院に搬送され、入院して血腫除去手術等の治療を受けたが、その後再度の出血を起こし、同月一七日午後三時一五分、脳内出血により死亡した。

2  職務と死亡との因果関係

〈1〉 発症素因

田中義臣は、被告に勤務開始後の昭和四七年六月頃に腎臓病のため約六か月間国立岡山病院において入院治療を受けたことがあり、その後いわゆる悪性高血圧と診断され、同病院、小塚医院、岡山中央病院、福島内科医院に順次通院して治療を受けていた。昭和五九年一〇月一六日、学校の養護教諭による血圧測定を受けた際、血圧が二三〇―一六〇mmHgもあり、早退して小谷内科医院で診療を受け、その後同医院に定期的に通院し、高血圧に対する治療を中心に行っていたが、症状が改善することはなかった。同医院での初診の時には、両下肢の浮腫、冠不全(冠動脈硬化)が認められた。その後も頭重感や心臓部の圧迫感を訴え、昭和六一年七月二〇日には顔面及び足の浮腫が認められた。同年八月五日には同医院より「血圧のためには食餌療法の他に精神的なストレスも避けた方がよい」との指導を受け、同年九月一一日には入院加療を勧められ、同年一〇月三日には「血圧が非常に高い。腎機能障害もある。無理しない方がよい。六割方の仕事で経過を見る」との指示を受けるまでに健康状態は悪化していた。

〈2〉 勤務状態

田中義臣の勤務は、次のとおり過重であった。

すなわち、田中義臣は、昭和六一年度、本来の数学の授業を受け持つと同時に、二年団の副担任として当時主任であった谷山典子教諭を補佐して、二年団の運営にあたっていたが、谷山教諭は老齢の母親を抱えて仕事に専念できない状態にあり、その統率力にも問題があったことから、二年団のまとまりは余り良くなく、そのため、仕事熱心な田中義臣に二年団の運営上の負担が増大した。加えて、同年七月、二年生のクラス担任をしていた長瀬裕子教諭が急死したため、右担任のクラス生徒の半数近くの家庭訪問を田中義臣が代わって行うなど負担がかかってきた。長瀬教諭の後任は甲田乙子教諭とされたが、同教諭は精神的な病気に罹患しており、授業等に関して不安定な状態であったため、田中義臣の負担は増大した。

また、田中義臣は、教務課長を担当し同課の責任者であった。教務課は教室の配置、時間割の作成のほか、各種行事予定の設定等学校運営の中心的な仕事を担当しており、学校において最も重要な課であった。日常的にも、生徒への連絡事項を決めたり、教師の都合によって自習とする場合には自習内容の企画をしたり、自ら教室に赴いて授業を行ったりなどした。加えて、教務課では、当時学校の将来にとって重要な事項である次年度実施予定の教養科新設の準備を担当しており、田中義臣は、その責任者として、他校の見学、意見の取りまとめ、職員会議への提案等の中心となっていた。

以上のように、田中義臣が多忙で心労の多い仕事に携わっていたところ、昭和六一年一〇月三日、学校の教頭が突然病気で二か月間入院することになり、田中義臣は教頭代行を命ぜられたが、右入院が長期のため、本来一時的な教頭の不在等の場合を補う役目である筈の教頭代行を長期にわたって担当することとなり、従来校長と教頭が担当していた仕事の一部をも負担することになって、校長の都合がつかない場合等には学校を代表するようなこともあり、田中義臣にとっては初めて経験することも多く、更に心労が募っていた。

昭和六一年一〇月二五日から二八日までの間、田中義臣は、学校行事である三泊四日の関東方面への二年団の修学旅行(参加生徒三一七名)の引率を担当した。右引率は、保護者から預かった生徒の安全保持監督のために非常に精神的負担が重く緊張を強いられる仕事であり、かつ、右旅行では、軽井沢でのサイクリングという初めての企画もあったため、とりわけ精神的緊張度が強かった。また、右旅行には、予定していた甲田教諭が参加できず、中村弘毅教諭も体調を崩しており、そもそも二年団のまとまり自体に問題があったので、事前に田中義臣が特別に校長に修学旅行への参加を頼み、その参加が実現することとなったほどであり、田中義臣の精神的な負担は相当なものであった。

田中義臣が昏倒する前日の昭和六一年一一月六日には、午後四時から九時にわたる長時間の職員会議で教養科新設の件が議題になったが、同人は、その内容を説明し、新設に不安を持つ教師もある中でその説得にあたるなど、会議の中心的な役割を担った。また、新設の内容を取りまとめて近く予定されていた中学校説明会等で対外的に発表することを迫られていた。

翌七日午後には、学校において高等学校PTA連合会補導部会の開催が予定され、校長が不在であったため、教頭代行である田中義臣が被告を代表して挨拶することとなっていた。その挨拶を控えた昼休み中、通学途中親戚の家に立ち寄った生徒に対して、教頭代行として、生活指導担当の教師とともに注意、指導をしている最中に昏倒したものである。

〈3〉 業務起因性

田中義臣は、前記〈1〉のとおり、遅くとも昭和五九年頃から悪性高血圧及び腎臓病の既往症を有していたが、これのみではすぐに死亡するような状況にはなかったにもかかわらず、誠実に学校において教職を勤め、脳内出血発生の準備的、前段階的な身体状況が作出されていたところに、昭和六一年四月から、前記〈2〉のとおりの過重な労務を強いられ、肉体面においても精神面においても負担が増大し、高血圧に更なる負荷を受けたことによって、脳内出血を発症して死亡したものである。

したがって、職務と死亡との間には相当因果関係が存在する。

3  被告の責任(安全配慮義務違反)

労働契約関係にある使用者には「快適な作業環境の実現と労働条件の改善を通じて職場における労働者の安全と健康を確保する」義務が課せられている(労働安全衛生法三条)から、使用者は労働基準法、労働安全衛生法、労働安全衛生規則等の趣旨に基づいて、その被用者の安全に適切な措置を講じ、疾病の発生ないしその増悪を防止すべき安全配慮義務を負い、被告は、田中義臣の使用者として当然に右義務を負っていたところ、次のとおりこれを怠った。

〈1〉 法律に則った産業医の選任と定期検診の懈怠

労働安全衛生法及び同規則は、労働基準法と相まって職場における労働者の安全と健康を確保することなどを目的とするものであるが、同法六六条一項は、事業者に労働者の健康診断を義務づけ、同条七項及び同規則四四条は、事業者に一年に一回、労働者の既往症、自覚症状や他覚症状、血圧、血中脂質検査、尿検査、心電図検査等の項目について、健康診断を行い、その結果、健康保持に必要な措置を講じることを義務づけている。同規則五一条は、事業者に健康診断結果に基づいて健康診断個人票の作成保存を義務づけている。さらに、労働安全衛生法一三条、同施行令五条では、五〇人以上の事務所について、産業医を選任する義務を定めている。

しかし、被告は、昭和六一年当時、被用者数が五〇人を越えていたにもかかわらず、昭和六一年以前には、産業医の選任を行っていなかっただけでなく、法に則った健康診断も実施していなかった。辛うじて、財団法人淳風会及び岡山クリニックに委託して、胸部X線間接撮影及び尿検査の二項目を行っていたものの、健康診断個人票の作成も怠っていた。さらに、健康診断のための時間保障の点でも、生徒対象の健康診断のついでに職員に健康診断を受けさせるといった程度で、職員には受診の時間も保障されていなかった。また、職員の健康状態を知り得る養護教諭に、その知り得た事柄の報告を義務づける制度すら整備されていなかった。

被告が法に則った定期健康診断を実施し、その結果を継続的に観察していれば、田中義臣が腎臓病で入院したこと、その後も血圧は上昇していたこと、血圧値、コレステロール値、尿酸値等も増悪していたことを把握するとともに、田中義臣の仕事量を軽減する等の措置を講じることが可能であった。ところが、右義務を怠ったため、田中義臣は死亡した。

〈2〉 健康状態の観察の欠如

田中義臣は、他の同僚に対し、血圧が高いことを述べており、同僚の目からも、疲労困憊しているように見え、顔もむくんでいた。昭和六一年当時、校長も、かねがね田中義臣の血圧が高いことは知っており、修学旅行に行けるかどうかを確認している。

田中義臣のこのような様子から、医学について素人である同僚や校長に高血圧の程度まで認識することは困難であろうが、少なくとも健康上深刻な状態にあったことは認識しえた筈である。とりわけ、校長は、同僚と異なり、職員の安全についての責任を負う立場にあり、人事についての権限も有しているのであるから、田中義臣に対して詳しく健康状態について説明を求めたり、通院している医療機関の検査資料や診断書の提出を求めたりするなどの対策を講じるべきであった。そうしていれば、同人の高血圧が入院を勧められる程深刻な状態にあったことを認識でき、同人の死亡は防止し得た筈である。

〈3〉 まとめ

被告が前記〈1〉、〈2〉のとおりの安全配慮義務に違反し、田中義臣に対して前記2〈2〉のとおりの過重な労務を強いたため、同人は、健康状態を急激に悪化させ、脳内出血を引き起こして死亡したから、右死亡について、被告は責任を負う。

4  田中義臣の損害

〈1〉 逸失利益 金六四五三万二三九〇円

田中義臣の昭和六一年度の所得金六五九万八九一〇円に、労働能力喪失年数二三年(死亡当時四四歳)に対応する新ホフマン係数一五・〇四五を乗じ、生活費控除割合を三五パーセント(当時妻である原告田中明子及び就学中の子供であった原告田中真理及び原告田中直裕を扶養中)として算出したもの

〈2〉 慰謝料 二二〇〇万円

〈3〉 葬祭費 一〇〇万円

〈4〉 過失相殺

田中義臣の死亡については、同人自身にも落ち度があったと認められるので、五割の過失相殺が相当である。

〈5〉 損益相殺 六二〇万円

労働者災害補償保険からの給付金

〈6〉 弁護士費用 二八〇万円

〈7〉 請求損害額 四〇三六万六一九五円

前記〈1〉、〈2〉、〈3〉の合計額に同〈4〉の過失相殺率として〇・五を乗じ、同〈5〉の損益相殺額を控除し、同〈6〉を加算したもの

5  相続

田中義臣の死亡により、妻である原告田中明子、子である原告田中直裕及び原告田中真理のため相続が開始した。

6  結論

よって、被告に対し、債務不履行に基づいて、原告田中明子は田中義臣の損害金のうち相続分二分の一に該当する金二〇一八万三〇九七円、原告田中直裕及び原告田中真理は各同相続分四分の一に該当する金一〇〇九万一五四八円並びに右各金員に対する訴状送達の翌日である平成二年四月一日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

請求原因1の事実は認める。

請求原因2〈1〉は知らない。

請求原因2〈2〉のうち、昭和六一年度、田中義臣が数学の授業を担当し、二年団の主任であった谷山教諭を補佐する立場にあったこと、教務課長として、教室の配置、時間割の作成、各種行事予定の設定等の仕事を担当していたこと、教養科新設の準備を担当していたこと、同年一〇月三日、学校の教頭が病気入院し、教頭の代わりにその仕事の一部を執務したこと、同月二五日から二八日までの間、二年団の修学旅行の引率を担当したこと、同年一一月六日に職員会議があったこと、同月七日にPTA関係の会議が開かれ、田中義臣が挨拶をする予定であったこと、その挨拶を控えた昼休み中、生徒の指導に立ち会っていた際に昏倒したことは認め、その余は争う。

学校の各学年団には、学年主任、同副主任、学級担任、副担任があり、田中義臣は副担任に過ぎず、学級を持っていなかった。甲田教諭は、当時健康状態は安定していて、田中義臣に負担がかかることはなかった。田中義臣の教務課長就任は、年齢、経験順からいって当然の流れであり、課長としての職務量は他の年度と比較しても大差なかった。教養科新設に関する具体的かつ中心的な検討は、教育課程委員会が行い、新設検討についての中心は別の教諭であった。田中義臣の授業担当時間数は他の教科の教師の平均時間数より軽減していた。教頭が入院した後、同人の仕事の大部分を処理したのは校長であった。修学旅行の間も田中義臣が他の引率教諭と比較して格別疲労度の強い仕事に就いたものではない。昭和六一年一一月六日の職員会議の議題の骨幹をなす教養科の具体的な指導項目は他の教諭が作成しており、田中義臣はそれを受けて趣旨説明をしたに過ぎない。また、同月七日に、校長不在のために挨拶する予定であったが、これは簡単に形式的な言葉を述べるだけで、教頭代行として通例の職務であり、当番校は会場を提供するのみであるから、精神的緊張の必要な仕事ではない。生活指導の立会にしても、そもそも保護者の同席もなくクラス担任の教諭が単身で諭すことで足りる程度のものに、校長及び教頭不在のため、田中義臣が立会うことになったもので、同人の役割は、クラス担任の教諭らの訓戒が出そろった頃を見計らい、締めくくりの趣旨で一般的、要約的な説諭をするものであり、田中義臣と同程度の経験年齢地位にある教師であれば、誰でも十分に対応できたものである。いずれにせよ、同人が行っていた職務は、質、量とも教師として一般的、普遍的な程度を越えるものではなかった。

請求原因2〈3〉は争う。

田中義臣の勤務は、学校の職員・教諭として一般的普遍的な内容程度を越えるものではなく、また、死亡当日やその直前の勤務が、原告が述べるような過労を招く程の特段の事情は存せず、過重な労務はなかった。したがって、田中義臣の死亡には業務起因性がない。

請求原因3は争う。

被告は、職員に対して、かねてより年二回胸部間接撮影の検診を行っており、昭和六一年には四月一四日に施行した。また、検尿の検診も、少なくとも昭和五四年頃から毎年行っていて、昭和六一年にも検尿検査を実施している。しかし、田中義臣は、これらの検診を一回も受診していない。学校はこれら検査の事前と当日に、重ねて受診を呼びかけており、特に、田中義臣に対しては直接に養護教諭が受診を促している。もともと職場における定期健康診断は異常の有無の発見を目的とするものであるところ、予め悪いところが分かっていて現に医師の診察を受けている者の場合には十分な検査が出来ていると評価できるから、右の者については、使用者は専門医から妥当な治療と指導を受けているという認識の下で健康管理を行えば足りるものである。実際に、田中義臣は、昭和五九年一〇月から昭和六一年一一月に至るまで毎月欠かさず月平均二、三回の割合で通院し、医師より検査投薬指導を受けていたのであるから、被告の健康管理としては十分であった。

原告らの主張の配慮義務は、いわゆる「安全配慮義務」とは異なり、「衛生配慮義務」とでもいうべきものであるが、衛生配慮義務については、第一に、自らの健康を一番よく知り健康を守るべき立場にあるのは本人自身であり、自己の体調の異常や障害の前兆などは本人がいち早く気づくものであること、第二に、健康は勤務の時間場所を離れて、日常生活の全領域において関心の払われるべき問題であり、使用者が当該労働者の健康のすみずみまでいわば無制限な範囲にわたって配慮を求められるものではないこと、第三に、「安全」については、使用者において独自に危険との間を物理的に遮断することも可能であるが、「衛生」については、労働者本人の意思判断行動等の対応を必要とすることが多く、労働者の協力等をなくしては到底その目的を達し得ないことなどの理由から、個別事案毎に具体的な吟味を要するという特徴がある。もともと、労務者の健康一般については、その健康を最もよく知り、また最も身近にそれを維持し得るのは本人であって、自己の体調の変動や障害の起伏は、真先に本人が気づく筈のものである。しかも、労務者が使用者の事実上の管理下にあるのは就業時間内だけであり、その余の生活時間は本人の統御に委ねられており、使用者の義務の射程外である。このようなことから、使用者の労務者に対する健康上の衛生配慮義務は、労務者の健康のすみずみまで無制限に論じられる問題ではなく、労務者本人が自らの責任において、管理し処理しなければならない分野がまことに広い。法令上も、労働者に対して健康診断受診義務(労働安全衛生法六六条五項)を明示しているところである。

田中義臣は、自宅から毎日自動車を運転して通勤し、血色、言動、勤務ぶりなどを総合して、外見上通常の健康人と変わるところはなかった。また、被告は、その職員に対して、毎年定期的に専門機関で健康診断を受けさせ、その血圧測定についても、学園内の保健室に常時測定器具二種類を備えつけて、職員に随時自由に実施させていた。もっとも、かねて、田中義臣の話として、「腎臓の調子がよくない」とか、「血圧が高く、医師に診てもらっている」という、抽象的な会話並みの申し出を受けていたので、被告も田中義臣の健康を全く考慮しないでいたわけではなく、平素時折無理しないで遠慮なく休むように勧めたり、あるいは昭和六一年一〇月二六日から二八日までの修学旅行も、その引率者決定にあたり、校長が無理をすることはないので、引率はやめたらどうかと強く勧めたりもした。授業受持の時間数は、教務課長であったことも考えて、他では一週平均一八時間であるものを、年度の当初では一二時間に、さらに教頭の入院後は九時間に減じていた。したがって、同年一〇月ないし一一月当時は、平均すれば、一日につき一時間か二時間の授業(授業時間の「一時間」は四五分)を受け持っていたのみである。しかし、このような被告からの配慮や勧奨に対し、田中義臣は、修学旅行の引率も含めて何時も「大丈夫だ」、「心配いらぬ」と胸を張って述べ、診察の内容に関しては終始一貫して、その症状、経過、検査や測定の結果、投薬などの報告、説明は一切なかった。このようなことから、被告としては、田中義臣の疾患について同人からの申し出のない限り、その具体的なことを知る由もなく、同人の説明がないことから、さほど深刻な程度ではないものと観察していた。かえって、同人は、自分の健康状態を被告に知られたくないので、健康診断や血液測定に際し、日頃から意図的に血液の測定や検尿を回避し、省略していた様子が窺える。被告としては、田中義臣が当時専門医にかかっていると聞いていたので、敢えてそれ以上に、職場での健康診断や血圧測定を強く求めることはなかった。さらに、昭和六一年一一月六日の職員会議においても、同人がその討議の間、説明や応対をして、他の出席職員と比較して大切な役割を果たしてはいたが、席上で教養科新設に関してはその趣旨説明を述べたにとどまり、具体的な指導項目等議論の対応は、校長及び他の教諭がこれにあたっており、学校案内の広報記事への批判に関しては、不手際の責を感じる発言をしたのみであり、田中義臣の行ったことは、学校一職員、教務課長として、一般的、普遍的に期待されている程度の範囲内のことである。さらに、職員一般の平均的な能力、資質の水準に照らし、特別の疲労度が加わったとか、異常な興奮・動転が続いたなどのアクシデント性は全く認められない。さらに、同人は組合活動に熱心に従事しており、昭和五九、六〇年度は、真備学園教職員組合の執行委員、資金調査担当として役職に就いていた関係で、組合活動を熱心に行っており、その故に疲労し、同人の死亡の結果に結びついていったのではないかとも推認できる。

田中義臣の発症の最大の原因は、既往症である腎臓の機能低下であり、それが慢性的悪性の高血圧症をもたらし、中途に安静入院を要したにもかかわらず、医師の勧告にも従わなかったことにある。長期にわたる高血圧の継続が、脳内に小さな多数の動脈瘤を生じさせて、何時その破裂が起こるか分からないという危険に隣接した状態にあったのである。したがって、田中義臣の死亡は、同人の職務と相当因果関係がないといわざるを得ず、被告が田中義臣の発症を予見すること自体不可能であり、予見を期待し得べき状態にもなかったから、被告に債務不履行はない。

請求原因4〈1〉のうち、田中義臣の昭和六一年度の所得が六五九万八九一〇円であること、同人が死亡当時四四歳であったこと、当時妻である原告田中明子及び就学中の子供であった原告田中真理及び原告田中直裕を扶養していたことは認め、その余は争う。

請求原因4〈2〉乃至〈7〉はいずれも争う。

労働者災害補償保険からの支払は更に多額であり、遺族補償年金の逐年累計額は増加している。

請求原因5は認める。

三  抗弁

1  田中義臣の過失

田中義臣には、請求原因3に対する認否欄のとおり、被告に対して自己の健康状態を申し出ず、悪化した自己の健康管理を怠り、医師の安静入院の勧告をも無視した過失がある。

2  損益相殺

田中義臣の死亡により、原告田中明子は、労働者災害補償保険から、平成五年一一月までに次のとおりの給付を受け、同年一二月以降も遺族補償年金を受給している。

療養補償給付 二八五万〇七四四円

遺族年金(総額) 一五七九万六六二六円

遺族特別年金(総額) 三一五万九九三四円

遺族特別支給金 三〇〇万〇〇〇〇円

葬祭料 八三万四一八〇円

四  抗弁に対する認否

抗弁1のうち、田中義臣に請求原因4〈4〉のとおり五割の限度で過失があることは認めるが、その余は争う。

抗弁2は争う。遺族特別年金及び遺族特別支給金は損益相殺の対象とはならない。

第三証拠

本件記録中の書証目録及び証人等目録のとおり(略)

理由

一  田中義臣の死亡

請求原因1の事実は当事者間に争いがない。

二  職務と死亡との因果関係

1  発症素因

(証拠・人証略)並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。

田中義臣は、被告に勤務開始後の昭和四七年六月頃に急性腎炎のため約六か月間国立岡山病院において入院治療を受けたことがあり、その後、同病院、小塚医院、岡山中央病院、福島内科医院に順次通院して治療を受けていた。昭和五九年一〇月一六日、学校の養護教諭による血圧測定を受けた際、血圧が二三〇―一六〇mmHgもあったため、早退して小谷内科医院(小谷三郎医師)に赴き、腎疾患に起因するものと考えられる悪性の高血圧症等の診断を受けた。その後、毎月平均二、三回の割合で定期的に同医院に通院して降圧剤等の投与等の治療を受けるほか、同医師からは食餌療法や精神的ストレス回避等に関する指示を受けていたが、自己の健康状態を学校に申告することはせず、家庭で、妻である原告田中明子に減塩や肥満防止のための献立等に努めさせ、或いは、自分が倒れた場合の処置について、電話口に「まず一一九番、ICUのある病院へ、心臓マッサージ一分間に六〇回」などの記載のある貼り紙をしておく程度に止まっていた。

しかし、その後も、血圧値は上二三〇乃至一七〇mmHg、下一五〇乃至一一〇mmHgという非常に高血圧である状態が継続し、また、冠動脈の硬化が認められ、各検査の結果は腎疾患(腎機能障害)の特徴を備え、長期にわたる投薬等の治療に実効性があまり見られず、昭和六一年七月には諸検査結果により更に症状悪化が認められたことから、小谷医師は、田中義臣に対し、その頃からは状態が重篤である旨告げて入院による治療を勧め、同年一〇月三日通院時には、「血圧が非常に高い、腎機能障害もある、無理をしない方がよい、六割方の仕事で経過を見る」ようになどと勧めたが、これら勧告に対し、同人は、「仕事が忙しい、とてもそんなに入院できる状態じゃない、自分はどうもない」などと答え、結局入院もせず、仕事量も減らさず、右医師の勧告を家族や学校に伝えることもしなかった。

田中義臣は、昭和六一年一一月七日昏倒したが、右は腎機能低下が高血圧の原因となって脳血管障害を来したものと推定された。昏倒後、同人は、直ちに済生会病院に入院し、同日開頭による血腫除去の手術を受けたが、同人の脳内の血管は長期間の高血圧の状態のため多数の小さい動脈瘤があり、それが次々と破裂する恐れがあったうえに、腎疾患のため血圧の抑制が非常に困難で、なかなか下がらず、一旦下がっても、また上がるといった繰り返しの状態が重なり、これらが原因となって、同月一〇日再出血を来し、緊急開頭により血腫除去手術を受けたが、さらに同日三回目の出血があり、処置を受けたものの、状態は悪化の一途をたどり、同月一七日午後三時一五分に死亡した。

2  勤務状態

請求原因2〈2〉のうち、昭和六一年度、田中義臣が数学の授業を担当し、二年団の主任であった谷山教諭を補佐する立場にあったこと、教務課長として、教室の配置、時間割の作成、各種行事予定の設定等の仕事を担当していたこと、教養科新設の準備を担当していたこと、同年一〇月三日、学校の教頭が病気入院し、教頭の代わりにその仕事の一部を執務したこと、同月二五日から二八日までの間、二年団の修学旅行の引率を担当したこと、同年一一月六日に職員会議があったこと、同月七日にPTA関係の会議が開かれ、田中義臣が挨拶をする予定であったこと、その挨拶を控えた昼休み中、生徒の指導に立ち会っていた際に昏倒したことは、当事者間に争いがない。

右争いのない事実に加えて、(証拠・人証略)の結果並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。

〈1〉  勤務時間等

学校は、大正一四年岡山県真備高等女学院として発足したいわゆる私立の普通科女子高等学校であり、昭和六一年当時、生徒数は一年生四五三人、二年生三三七人、三年生三七二人、合計一一六二名、職員は校長、教頭外常勤教諭三九名、非常勤二九名、その他事務職員等合計九四名を擁し、田中義臣は、常勤教諭の中では年齢的には高い方から一〇番目位、勤続年数では長い方から五番目位であり、真面目かつ誠実で職務熱心な教諭としての定評があった。

校務の分掌は、教務課等の六課、事務室、企画委員会等の一七委員会、各教科主任、学年担任、育友会校内幹事、寄宿舎舎監(寮母)、桜園会(同窓会)の各分野に分かれて、職員らによって分担され、当時、田中義臣は、数学の授業を担当する教諭であると同時に、教務課の課長であり、同課内を統括するとともに、課内の教務係及び教育課程係の用務を担当し、教育課程委員会、転入検討委員会、広報委員会及び総務委員会にも属し、学級担任はなかったが、二年生の副担任(担任の補助業務)となっていた。

職員らの勤務時間は、朝礼開始の午前八時三〇分から授業時間終礼の午後三時一〇分の後一時間以後までとされ、日曜日、祝日が休日とされ、通常、午後五時乃至六時頃に退出する職員が多かったが、田中義臣は、午後六時頃の退出が多く、ときには仕事熱心のあまり午後一〇時頃の退出となることもあった。なお、同人は、真備学園教職員組合の組合員であり、特に、死亡する前の昭和五九、六〇年度は、右組合の執行委員(資金調査担当)の役職についていた関係で、組合活動にかなり熱心に従事しており、右活動のため、平日の帰宅時間が遅くなったり、休日に出掛けることも多かった。

〈2〉  教務課長

田中義臣は、昭和五九年度までは進路指導課の進学指導係を担当し、昭和六〇年四月から教務課長となった。学校の組織上、教務課は生徒課と並んで重要な課であり、教務課長は校長、教頭に次いで重要なポストであった。教務課長就任により、同人の受持授業時間数は、一般教諭としての一八時間から一二時間に減少した。なお、学校内における年齢、経験の順序からすれば、田中義臣の右課長就任は順当なものであった。

〈3〉  教養科新設

教養科の新設は、生徒減少期における私立学校として学校の新たな取組みの一環であり、かねてより教務課が中心となって検討を重ねてきていたものであったが、昭和六一年になって、翌年度からの実施に向けて、田中義臣が教務課長として最終的な取りまとめに奔走していた。

〈4〉  副担任の負担加重

学校の一年生、二年生、三年生の各学年団は、教諭の代表である学年主任、その補佐役の学年副主任、各学級担任、その補佐役の副担任によって統括運営され、昭和六一年当時、田中義臣は二年団(八組)を担当する教諭の一員として副担任(三名構成)の地位にあり、学級を持たないで、学級担任の補佐役の一人として同学年団に関する職務の一部を分担していた。

昭和六一年七月、二年四組の学級担任であった長瀬裕子教諭が死亡し、後任にそれまで副担任の甲田乙子教諭が学年担任となり、副担任が当初の三名から二名となったため、非常勤の前原裕子講師が同年度末まで常勤講師となって副担任の欠員一名に補充されたが、甲田教諭は平素健康状態が安定せず、田中義臣が中心となってその欠席を補い、生徒の家庭訪問を手伝い、授業や自習を案配するなどし、その副担任としての負担は増していた。また、この当時の二年生には問題生徒が比較的多く、まとまりにも欠けており、一学期末にかなりの問題行動があり、田中義臣も学年主任や担任、副担任らととともに家庭との連絡等に当たっていた。

〈5〉  教頭代行就任

昭和六一年一〇月三日、伊沢信夫教頭が二カ月ほど入院することになり、教務課長であった田中義臣が教頭代行を命ぜられ、それまで教頭が担当していた職務の一部を校長と分担して代行することになり、これにより教務課長としての受持授業時間数一二時間について更に九時間に減少の扱いを受けたが、同人自身は、教養科新設や長瀬教諭死亡にかかわる教務課長や副担任としての忙しさのうえに更に仕事が加重するとして、右教頭代行就任にかなりの心理的負担を感じ、妻である原告田中明子に不満を漏らすなどしていた。

〈6〉  修学旅行の引率

昭和六一年一〇月二五日から二八日までの間、学校では二年団の生徒三一三名の軽井沢、日光、東京方面への修学旅行が実施され、田中義臣は、校長外一一名の教諭らとともに、その引率に参加した。

田中義臣は、前記1のような悪性の高血圧症状について学校に対して正規には申告してはなかったが、日頃、同僚らには腎臓が悪く高血圧で医者にみてもらっていることや、体の具合があまり良くないことなどを漏らすこともあり、また、同僚らも、現に田中義臣が勤務中だるそうにしているなど健康状態があまり良くないのではないかと思われるような態度姿勢をしているのを目にしており、この点は、金谷達夫校長の耳にも入っていたところ、右修学旅行に先立ち、同校長は、他の教諭から田中義臣の体調が悪そうだと知らされたことから、同人に対して引率をやめた方がよいのではないかと勧めたのに対し、同人は、医者にかかっているから大丈夫、今の二年生は問題の生徒が多いので心配なので行きたいなどと述べたため、同校長もそれ以上同人の健康状態について追及せず、引率を引き止めることもしなかった。また、生徒課長の改発邦彦教諭も、当時田中義臣の疲れた様子を見て、同人に対し、いつでも修学旅行の引率を交替してよい旨申し入れていた。

〈7〉  職員会議

修学旅行終了後間もない昭和六一年一一月六日午後四時頃から九時頃まで、学校では職員会議が開催され、主要な三つの議題について、専ら教務課長である田中義臣が説明や答弁に立った。まず、同月下旬に予定されていた中高連絡会(県下約一〇〇校の中学校の進学担当者を招いて生徒募集要項等について説明することなどを目的とする会)について、その準備及び運営を担当していた教務課の代表者として、同人が説明等にあたった。次いで、翌年度からの教養科新設問題について、右新設に向けての取組みの中心を担った教務課の課長として、同人が、右新設を推進したい学校側の立場から趣旨説明をし、教員の中には反対意見もあり、種々討議がなされ、議論は長時間にわたったが、結局、新設するとの結論に達し、同人が最終的な取りまとめ書類を作成することとなった。最後に、学校案内の広報記事に、学校が既にOA機器を導入して指導を行っているかのような誤解を招く記載があるとの指摘、批判があり、その企画広報に関与していた田中義臣が応答し謝罪するなどした。

〈8〉  高等学校PTA補導部会

昭和六一年一一月七日、午後には学校において岡山市内高等学校PTA補導部会の開催が当番校として予定され、不在であった校長に代わり、田中義臣が開会の挨拶をする手筈になっており、挨拶それ自体は簡単なものでよかったのであるが、同人としては初めての経験であり、また、いわゆるあがりやすい性格から挨拶を苦手にしていたことなどから、当日の朝、出勤前に妻である原告田中明子にもかなり緊張した様子がうかがわれていた。

〈9〉  訓戒説論

昭和六一年一一月七日、右PTA補導部会を午後に控えた昼休みに、一年の生徒が通学途中に学校に無届けで親戚方に立ち寄って休息をとったことが発覚し、その生徒に対し、生徒指導担当教諭や担任の教諭らが訓戒説論することになったが、その際、田中義臣は、不在であった校長の代わりに立会いを求められて同席していた(これも同人にとって初めての経験であった)ところ、最後に、同人がその生徒に対して要約的な説諭をする段になって、突然ろれつが回らなくなり、その場に昏倒した。

以上のとおり認められる。

3  因果関係

労働者が死亡の素因となるべき基礎的な疾病を有する場合でも、職務に従事したことが右疾病増悪の有力な原因として作用し、その結果死亡に至ったものとして、職務及び疾病が死亡の共働原因となったといえるときには、職務と死亡との間には法的な因果関係が存在するものと認めるのが相当である。

前記1、2の事実のとおり、田中義臣は、昭和四七年六月に急性腎炎を患って以来徐々に腎疾患に起因するものと考えられる慢性的な悪性の高血圧症となり、昭和六一年七月頃には、かかりつけの小谷医師から入院加療を勧められ、入院しないなら仕事を六割方に減らすように勧告を受けるまでのかなり重篤な状態になっていたが、右勧告に従わないでいたところ、当時、田中義臣は、学校において、校長、教頭に次ぐ重要なポストである教務課長の任にあり、学校の懸案である翌年度から教養科新設の準備の責任者として奔走するかたわら、二年団の副担任として、死亡した担任教諭の後任教諭の健康状態不安定等のためその負担が増している状況にあり、更に教頭の入院のため教頭代行に就任し、授業時間の減免の措置はうけたものの慣れない立場に心身両面の負担を感じるようになっていたところに、体調が優れないことが傍目にもうかがわれるのに二年団の修学旅行の引率に加わったほか、右旅行後間もない職員会議において主要議題すべてについて説明答弁謝罪等を担当し、その翌日、公式の場で校長の代わりに苦手な挨拶をする予定となっていて、初めての経験を前にかなり緊張していたうえに、その直前に急に校長の代わりとして生徒の訓戒説諭の場に立ち会いを求められ、その際昏倒したものであり、これら同人の健康状態や勤務状況等に鑑みると、同人は、右昏倒時には、腎疾患及び高血圧症による体調不良のうえに、種々の職務上の負担が重なり、心身ともに相当の疲労が蓄積していたところに、更に慣れない局面でのかなりの精神的緊張が加わったものと推認される。

したがって、右諸事情を総合考慮すると、田中義臣の死亡は、同人のいわゆる持病としての高血圧症乃至腎疾患が自然経過的に増悪したことによるものとは考え難く、同人の高血圧症等の基礎疾患が入院加療又は六割方の仕事量程度を妥当とするまでに悪化していたところに、同人の学校における勤務上の一連の負荷が加わったことによって内在していた危険が現実化し、結果として双方が有力な共働原因となって、同人の昏倒を来たし、死亡に至ったものと認めるのが相当であり、同人の死亡と学校における職務との間には法的な因果関係があるものというべきである。

三  被告の責任(安全配慮義務違反)

労働安全衛生法三条一項は、事業者等の責務として「事業者は、単にこの法律で定める労働災害の防止のための最低基準を守るだけでなく、快適な作業環境の実現と労働条件の改善を通じて職場における労働者の安全と健康を確保するようにしなければならない・・・」旨定め、同法六六条一項は「事業者は、労働者に対し、労働省令で定めるところにより、医師による健康診断を行なわなければならない」と定め、同条七項は「事業者は・・・健康診断の結果、労働者の健康を保持するため必要があると認めるときは、当該労働者の実情を考慮して、就業場所の変更、作業の転換、労働時間の短縮等の措置を講・・・じなければならない」旨定め、労働安全衛生規則四四条(平成元年六月三〇日改正前)は「事業者は、常時使用する労働者・・・に対し、一年以内ごとに一回、定期に、次の項目について医師による健康診断を行わなければならない」とし、項目として「既往症及び業務歴の調査、自覚症状及び他覚症状の有無の検査、身長、体重、視力及び聴力の検査、胸部エックス線検査・・・、血圧の測定並びに尿中の糖及び蛋白の有無の検査」を定め、同規則五一条(同)は「事業者は・・・健康診断の結果に基づき、一般健康診断個人票・・・を作成して、これを五年間保存しなければならない」旨定めている。なお、学校保健法八条(職員の健康診断の義務付けについて)、同法施行規則一〇条(検査の項目について)、同規則一二条(健康診断票作成の義務付けについて)、同規則一三条(健康診断の結果に基づく事後措置について)にも、右同趣旨の規定が存在する。

さらに、労働安全衛生法一三条、同法施行令五条は「事業者は、常時五〇人以上の労働者を使用するすべての事業場ごとに・・・医師のうちから産業医を選任し、その者に労働者の健康管理・・・を行なわせなければならない」旨定め、同規則一四条一項は、産業医の職務として、健康診断の実施その他労働者の健康管理に関することを定めている。なお、学校保健法一六条一項、四項は「学校には学校医を置くものとし、学校医は、学校における保健管理に関する専門的事項に関し、技術及び指導に従事する」旨定めている。

これら諸規定の趣旨に照らすと、事業者である被告は、学校の設置者として、学校に勤務する職員らのために前記労働安全衛生法乃至学校保健法等の規定する内容の公的責務を負担すると同時に、右規定の存在を前提に、被告と雇用契約関係にある職員らに対しても、直接、右雇用契約関係の付帯義務として、信義則上、健康診断やその結果に基づく事後措置等により、その健康状態を把握し、その健康保持のために適切な措置をとるなどして、その健康管理に関する安全配慮義務を負うものというべきである。

ところで、(証拠・人証略)並びに弁論の全趣旨によれば、学校では、田中義臣の死亡した昭和六一年度までは、前記各法規定の定めに則した職員を対象とする正規の健康診断等は実施されておらず、僅かに、毎年一回民間医療機関である岡山クリニック及び財団法人淳風会に胸部エックス線間接撮影並びに尿中の糖及び蛋白の有無の検査を委託し、その検査結果の報告を受けるにすぎず、血圧については、学校の保健室に血圧計を常時二基設備して職員が自由に血圧を測定することができるようにしていた(田中義臣もこれにより養護教諭に血圧測定を依頼したことがあった)が、健康診断の一項目として血圧検査が実施されたことはなかったほか、学校では職員の健康診断個人票も作成されていた形跡はなく、また、学校の人的組織上は校医として医師の名が掲げられてはいたものの、当該医師が職員の健康診断や健康に関する指導相談に当たるなど健康管理に関する措置を講じていた形跡もないこと、田中義臣は、その死亡まで、右エックス線間接撮影や尿の検査について受検しないことが多く、少なくとも昭和五九年度から昭和六一年度までの間は全く受検していなかった(養護教諭がこれに気付いて受検を促したが、田中義臣が医師の診断治療を受けているとの申告をしたので、重ねて受検を要請しなかった)こと、なお、同人は、医師の診断治療結果を学校に報告したこともなく、また、学校が右報告を要請したこともないこと、学校側では、田中義臣の死亡まで、校長や同僚職員らが、同人の日常の会話や態度から、同人の血圧が高く、医師にかかっており、体調が優れない程度の非公式の認識を有していたものの、その高血圧の程度や値、その原因となる腎疾患の存在、本来ならば入院を要する程度の病状にまで悪化していたことなどについては全く認識しておらず、同人の死亡後になってようやく知るに至ったこと、同人の死亡後、学校では従来の職員の健康管理のあり方に対する反省から、昭和六二年度からは、従来の検査の外に、内科診察、血圧測定、心電図検査、胃部間接撮影等の検査項目が付加するなど、健康診断についての体制を一新したこと、以上のとおり認められる。

右認定事実によれば、定期の健康診断の項目に血圧検査があれば、田中義臣の悪性の高血圧症は容易に判明したものということができ、また、尿検査についても、受検を促し、他で検査したというならば、その結果の報告を義務付け、しかも、健康診断個人票を作成していれば、同人の悪性の高血圧症の原因ともいうべき腎疾患の存在と程度を含む総合的な健康状況を容易に把握し得た筈であり、そうなれば、それ相応の仕事量の調整や勤務形態の変更等の(前記修学旅行の引率の際における校長の引き止め勧告のような通り一遍の健康に対する気遣いといった域を超えた)抜本的対策(教頭代行の交替等職務負担の大幅軽減、場合によっては一時入院等の措置)をとることが期待できたものと推認できるところ、これらの健康管理に関する措置や体制の整備を漫然と怠っていた当時の学校の態度は、前記諸法規の要求する労働安全衛生保持のための公的な責務を果たさない不十分なものであったと同時に、職員らに対する雇用契約関係上の付帯義務として信義則上要求される健康管理に関する安全配慮義務にも反していたものと認めるのが相当である。

なお、被告は、労働者の健康については、労働者本人が自らの責任において管理し、処理することが必要な分野が広く、また、学校における健康診断は、健康に問題があることが発見された場合には専門医の治療を受けるという契機を与えるための制度に過ぎないから、田中義臣のように既に専門医に受診している場合には、被告の配慮義務は問題とならないなどとも主張するが、仮に専門医に受診しているとしても、被告において職員らの健康を自ら主体的に把握し、その健康状態に応じた職務上の措置を採るべきことに変わりはなく、被告に安全配慮義務がないということはできない。また、田中義臣が、学校の健康診断を受検していなかったことや、自己の健康管理に問題があったことなどについては、損害額の算定における過失相殺の際に考慮の対象となるとしても、被告の安全配慮義務違反を否定するまでの要素であるとはいえない。

四  田中義臣の損害

1  逸失利益 六四五三万二三九〇円

請求原因4〈1〉のうち、田中義臣の昭和六一年度の所得が六五九万八九一〇円であること、同人が死亡当時四四歳であったこと、当時妻である原告田中明子及び就学中の子供であった原告田中真理及び原告田中直裕を扶養していたことは、当事者間に争いがない。

右事実によれば、田中義臣の逸失利益は、昭和六一年度の所得六五九万八九一〇円に、労働能力喪失相当年数二三年に対応する新ホフマン係数一五・〇四五を乗じ、これに生活費控除割合を三五パーセントとして〇・六五を乗じて得た六四五三万二三九〇円と認めるのが相当である。

2  慰謝料 一二〇〇万円

田中義臣の年齢、職業、地位、いわゆる持病としての基礎疾患の内容及びその重篤性、家庭状況等を総合考慮すると、慰謝料は一二〇〇万円と認めるのが相当である。

3  葬祭費 一〇〇万円

田中義臣の年齢、職業、地位、家庭状況等に鑑みると、葬祭費は一〇〇万円と認めるのが相当である。

五  過失相殺

前記三のとおり、事業者である被告は、学校の設置者として、まず職員らの健康状態を把握し、それに応じた職務上の適切な措置をとることにより、職員らの健康管理に関する安全配慮義務を負うのに、これを怠った過失があるものと認められるが、他方、労働安全衛生法六六条五項は労働者に対して事業者が行なう健康診断を受けることを義務付けているところ、職員である田中義臣は、前記二のとおり、これを受けようとしなかったばかりか、腎疾患を原因とする悪性の高血圧症により通院継続中で、昭和六一年七月頃以降は、小谷医師から病状悪化により入院治療を勧告され、入院しない場合は仕事量を六割方に減らすよう勧告を受けるまでに至ったにもかかわらず、職務熱心のあまりとはいえ、この点を一切学校に申告せず、それとなく体調の優れない様子を慮った校長や同僚教諭らの勧めすら辞退して修学旅行の引率に参加するなどし、疲労の蓄積を招いたものであって、自ら申告しさえすれば、学校側がこれに配慮してそれなりの措置をとることを期待できたことなどからすると、田中義臣の自己の健康管理についての落ち度は大きいものといわざるを得ない。

したがって、右の田中義臣のいわゆる持病の重篤性、自らの健康管理の問題性、特に医師から入院を勧められるような容態であるのにいわば隠して無理をしていたこと、職務自体は当時教頭の入院や教務課(ママ)の新設その他の行事のため繁忙となっていたが、通常の健康体ならば堪え得る程度のものとうかがわれること、その他本来他人には即座に計り知れ難い領域を含む健康管理は第一義的には労働者本人においてなすべき筋合いのものであることなどを考慮し、これらを前記被告側の職員に対する健康管理に関する安全配慮義務違反の内容程度に対比すると、過失の割合は、被告を一とすれば、田中義臣を三とするのが相当であり、過失相殺の割合は四分の三とすべきである。

六  相続

請求原因5の事実は当事者間に争いがない。

七  賠償損害額

1  財産上の損害

前記四1の逸失利益と同四3の葬祭費の合計六五五三万二三九〇円のうち賠償すべき額は、前記五の過失相殺割合四分の三を控除した残額の一六三八万三〇九八円となり、原告田中明子の相続分はその二分の一に当たる八一九万一五四九円、原告田中真理及び原告田中直裕の各相続分はその四分の一に当たる四〇九万五七七四円となる。

2  精神上の損害

前記四2の慰謝料一二〇〇万円のうち賠償すべき額は、前記五の過失相殺割合四分の三を控除した残額の三〇〇万円となり、原告田中明子の相続分はその二分の一に当たる一五〇万円、原告田中真理及び原告田中直裕の各相続分はその四分の一に当たる七五万円となる。

八  損益相殺

調査嘱託の結果(岡山労働基準監督署長平成五年一一月二二日付回答分)並びに弁論の全趣旨によれば、田中義臣の死亡により、原告田中明子は、労働者災害補償保険から、平成五年一一月までに左記1ないし5のとおりの給付を受け、同年一二月以降弁論終結(平成六年八月三〇日)までに左記6のとおり遺族補償年金を受給したことが認められる。

1  療養補償給付 二八五万〇七四四円

2  遺族補償年金(総額) 一五七九万六六二六円

3  遺族特別年金(総額) 三一五万九九三四円

4  遺族特別支給金 三〇〇万〇〇〇〇円

5  葬祭料 八三万四一八〇円

6  遺族補償年金(平成六年二月期、五月期、八月期分合計) 一八九万八五五〇円

なお、右3の遺族特別年金及び右4の遺族特別支給金は、死亡した労働者の遺族の福祉の増進のために措置された趣旨のものであるから、損益相殺の対象となるべき性質のものではない。

したがって、原告田中明子が労働者災害補償保険から受給した金額のうち、損益相殺の対象となる額(財産上の損害に限る)は、右1、2、5、6の合計二一三八万〇一〇〇円と認められるところ、右は前記七の同原告の相続分八一九万一五四九円を超過しており、同原告の財産上の損害賠償請求債権は消滅している。

九  弁護士費用

以上によれば、被告に対し、原告田中明子は前記七2の精神上の損害一五〇万円、原告田中真理及び原告田中直裕はそれぞれ前記七1の財産上の損害と同七2の精神上の損害の合計四八四万五七七四円の賠償請求債権を有するところ、本訴の内容、審理の経過、右各認容額等に鑑みると、弁護士費用は、原告田中明子について一五万円、原告田中真理及び原告田中直裕について各四八万円と認めるのが相当である。

一〇  結論

以上によれば、原告らの本訴請求は、被告に対し、原告田中明子が相続にかかる損害金残額一五〇万円と弁護士費用一五万円の合計額一六五万円、原告田中直裕及び原告田中真理がそれぞれ相続にかかる損害金四八四万五七七四円と弁護士費用四八万円の合計五三二万五七七四円並びにこれらに対する訴状送達の翌日である平成二年四月一日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度において理由があるからこれを認容し、原告らのその余の請求はいずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条、九二条、九三条を適用し、仮執行宣言については必要性を認めるに足りないからこれを付さないこととして、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 矢延正平 裁判官 德岡由美子 裁判官 種村好子)

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